グイノ神父の説教

        




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年間第23主日      C年      201095

   知恵の書 91318節  フィレモンへの手紙 9101217節  ルカ 142533

    「大勢の群集がイエスについてきた」 キリストに従っている群衆は、彼がエルサレムに入城する時、自分たちも栄誉を得たいと望んでいます。 この群集はイエスがエルサレムに入る理由が、皆から見捨てられ、恐ろしい苦しみのうちに、十字架上で死ぬためであるとは知りません。 そういうわけでイエスは自分に従っている人々が、この道を続ける前に座って反省するように勧めます。

    ですから、私たちも今日イエスの言葉を受け取る為に座りましょう。 静かに座ったまま、私たちが無条件で、聖パウロが語っている「十字架のおろかさ」まで、キリストに従う事が出来るかどうか、考えましょう。 と言うのは私たちの共同体に属している人々にとっても、十字架はまだつまづきだからです。

    この福音を書きながらルカは、自分の時代の信徒の事を考えています。 キリスト信者になるために、多くの人が決定的な選びをしました。 信徒になったユダヤ人も異邦人も、度々自分の家族から追い出されました。 侮辱され、投獄され、追放され、拷問受けた彼らは、自分の社会的、宗教的、文化的環境から追い出されました。 イエスにおける信仰の故に、大勢の人が殺されました。 そこでルカは、キリスト者であるということは悲劇的な結果を引き起こす選びであるというイエスの言葉を、私たちに思い起こさせます。 ですからイエスに従う前に、まず、座る事、反省することから始めるのが良いのです。

    閉じ込められた牢獄から、パウロは友であるフィレモンに、彼のところから逃げ出した奴隷であるオネジモを赦してくれるように願っています。罰を受けるのに相応しい昔の奴隷としてオネジモを受け入れるのではなく、むしろ「愛する兄弟」として受け入れるように、パウロはフィレモンに勧めています。 疑いもなく、フィレモンは信徒になった自分の奴隷を兄弟として認めるのを躊躇(ちゅうちょ)した事でしょう。 死んで、復活されたイエスにおける強い信仰がなければ、こんな事を実現するのは とうてい無理です。 自分の十字架をとること、信徒として生きることは、自分の考え方を忘れる事です。 それは神に栄光を与える新しい生き方を受けると同時に、信頼をもってキリストに従がうことです。

    初代教会の信徒のように私たちも、キリスト教的環境に置かれていません。 ですから私たちは良い選びをしなければなりません。 自分の家族、友人、生命さえよりも、キリストを選ぶのは、これらの大切なものから離れる事を意味するのではありません。 イエスは決して、私たちの愛、友情を廃止せず、むしろそれらを清め、変えようと望まれます。 家族や友人よりもキリストを選ぶ事は、彼らが神の望みどおりの人になるように、彼らを愛し続ける決心をすることです。 本当の弟子となるために、また完全に愛する事ができるために、キリストに従がおうとしている私たちの歩みを邪魔するものを、どうしても切り離す必要があります。

    信じるとは、命を危険にさらすこと、即ち、自分たちの持っているもの、出来ること、あるいは知っていることに信頼をおかずに、ただ神だけを信頼する事です。 人間関係を超えて、私たちの日常生活の中で、神が第一でなければなりません。


    「自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない」 イエスの後に十字架を背負ってついて行くキレネのシモンは、真の弟子の姿です。 試練の時によろめく私たちは、直ぐそばにイエスが立っていることを思い出しましょう。 先立ってよろめきながらイエスは、この十字架の道を通って復活の喜びへと導きます。 私たちに先立つイエスに信頼と希望を置くなら、私たちを苦しめるものすべては、生命への道となるでしょう。

    イエスは度々弟子たちに休むように、普段の生活から離れるように招きます。 共に道を歩むイエスの仲間であることは、非常に時間のかかる長い冒険の道を歩む事です。 イエスと共に、永遠の生命の喜びと栄光に達するには、少しずつ歩みながら自分の信仰を深める為に休むことが、必要不可欠な事です。 アーメン。



                     年間第24主日       C年       2010912 

    出エジプト 327111314節  Tテモテへの手紙 11217節  ルカ 15章T−10

    罪人に対するキリストの行動は、躓きのもとになるようなものだとファリサイ人や律法学者は思い込んでいます。 イエスは例え話をつかって神が罪人をどのように見られるかを彼らに説明しようとします。 1000頭以上の羊を持っている金持ちに較べると,100頭しか持っていない人は、少ししかもっていない事になります。 ですから、彼らにとってただ一匹の羊を失うことは悲劇となります。 同様に、10ドラクマ持っている婦人は自分の手に全財産をもっていることになります。 多分未亡人である彼女にとって、ただ一枚のドラクマを失うことも、自分が生き延びるかどうかの問題になります。

    例え話を通して、罪人とは神が失った一人の大切な人間だと、イエスは説明します。 神の目には、この損失は悲劇であり、非常に大きな損失になります。 勿論神は罪人を無罪とはされませんし、また彼が犯した罪も隠されません。 しかし神は先ず罪人を失われたご自分の持ち物として考えられます。 だから、それを発見するまで、神はひたすらご自分の持ち物を捜し求めます。 それを見つけたとき、神の喜びは爆発し、皆に伝染します。 「私と共に喜びなさい」(ルカ1569節)と。 ファリサイ人と律法学者が神の喜びについて教えることは全く違います。 彼らにとって、罪人が神の怒りによって破壊されたとき、神が非常に喜ぶと言います。 この異なる二つの喜びを見て、どれほど、イエスの神とファリサイ人の神が違うかが分かります。 

    一方には、罪人の滅びを喜ぶファリサイ人と律法学者があり、他方には、罪人の回心を大いに喜ぶ神と天使があります。 このことで、罪が無罪とされていないことが分かります。 もし一人の罪人の回心が天において大きな慰めと安堵(あんど)を与えるとしたら、確かに、罪は恐ろしく、また悲劇的なものだということが分かります。 私たちは平気で、罪の赦しを避けたり、また回心を遅らせたりします。 このような私たちは、一体罪の重大さがいつ分かるのでしょうか?

   
 神が罪人を愛されるのは、彼らが神のものだからです。 しかし、神が罪を憎むのは、その罪が神の愛する者を破壊するからです。 罪は神をひどく動揺させます。 そのために、聖書全体が動き、働き、私たちの方へ走ってくる神を示します。(放蕩息子参照のこと) そういう理由で、動かない、また心のない偶像として神を表わす事を禁じています。 聖書は私たちも神のように動き、行い、神の方へ来るように招き、私たちが、自分の人生のなかで、あちらこちらに立てた偶像を破壊するように誘います。 つまり、自分の罪と悪い傾きを握り締めて、赦すことや愛することを拒否して、聖性の方へ歩むのを拒んでいる時こそ、私たちは偶像を作っているのです。 最初のページから最後のページまで、心の回心を行ないながら、神と共に永遠に喜ぶように聖書が私たちを招いています。 この誘いを理解して、答える事ができるでしょうか?

    イエスの言葉を聞くために、全ての罪人が集まって来たとルカは述べています。 これによってルカは神を捜し求めるように動き、神を見つけてから、終わりのない喜びのうちに神と共に歩むように誘います。 同時に私たちは、罪人が神に立ち戻るように祈る必要があります。 「冒?する者、迫害する者、暴力をふるう者」(Tテモテ113節)であったパウロを、初代教会の祈りが回心させたのです。

     罪人の為の祈りが、神が憐れみ深いように、私たちを憐れみ深いものとします。 この祈りは私たちに謙遜になり、回心する力を与えます。 罪人の死の時まで祈り続けるマリアとこの祈りは私たちを一致させます。 罪人の為に捧げるこの祈りは、まず御父の前で、絶えず取り成すキリストの祈りです。 罪人のために確かにイエスは人間になって、苦しみを受け、死んで復活されました。 この理由は、彼らに神の国の門を開く為です。 ですから回心しましょう。 そしてすべての救われた罪人とともに、終わりのない喜びの王国へはいりましょう。  アーメン。



                  年間第25主日      C年     2010919日 

    アモス書 847節   Tテモテへの手紙 2章T−8節   ルカ 16章T−13

    
預言者アモスとイエスは、世の不正な行いを列挙します。 秤の釣り合いを狂わしてごまかしたり、安く買ったものを非常に高く売ったり、本当はたくさんの物があるのに、足りないと思わせたり、偽の領収書をつくるグループを作ったりすることです。 これらの不正を上手に犯しても、それは軽犯罪そのものであり、いかに上手にやっても誰もそのことを称賛しません。 イエスとアモスは、自分の支配力を利用して他の人をだまし、このような種類の不正をおこなう人を、厳しくとがめられます。 しかし、イエスの弟子たちが同様の賢さを示しながら、善を行なうようにイエスは要求します。 不正を行なう人の賢さを超える新しいやり方を見つけるように、いわば不正と軽犯罪はキリスト者に刺激を与えると言えます。

   私たちの愛,赦し、正義は、憎しみ、無礼、不正よりも強くなければなりません。 この面で、イエスは私達が従うべき模範です。 なぜなら、ご自分を十字架の恐ろしさに引き渡そうとする人達の憎しみ、無礼、不正が自分におそい掛かった時に、イエスは最高の愛を示されたからです。 ですからイエスは権威を持って「あなたがたは同時に、神と富とに使えることは出来ない」と言います。 つまりあなたがたは売り買いの出来る地上のものの味方になると同時に、神の無償の愛の味方になることは出来ないということです。


   私たちの人間関係はあらゆるプレッシャーに対して、また支配し、所有するあらゆる野望から自由でなければなりません。 キリスト者は、この世で生きていくのに必要なものすべてを与える神の愛の力に、自分の支えを見出さなければなりません。 不正な管理人の例え話から、私達を取り囲んでいる悪に対して賢く振舞うようにイエスは招きます。 もし、私たちの福音的ふるまいが祈りを支えとしているなら、不正とわいろの暗闇に閉じこもっている人にとって、その祈りは、必ず、光となることでしょう。 「お互いの尊敬と相手の文化に対する理解なしに、また神と人間の間に新たにされた関係なしには、未来はない。」と日本大本教の廣瀬静水氏は述べています。

   病気の試練や失敗とぶつかっている人々との共感を尊重しながら、彼らに対する尊敬を失わないようにしましょう。 特に失業者や突然職を失った人々のために度々祈りましょう。 困難な状態から逃げる唯一の解決が自殺だと考える人達のために、神の救いを懇願しましょう。 更に、この世がもっともっと人間的兄弟的になるように聖霊の助けを願いましょう。 たとえその結果が見えなくても、この世が神の王国になるために、そしてこの世を変化させるために、私たちの祈りは、神が与えてくださった最も効果的な力です。 ですから、神の救いのご計画に奉仕するために、賢く、熟練した祈る人になりましょう。 ただ神だけは、ちょっとした休みも取らずに、私たち一人ひとりを細かく丁寧に世話してくださるからです。 実際、他の人に対する注意と愛のこのレベルには誰一人、決して、神に追いつくことは出来ません。 しかし、私たちの祈りを神の働きかけに加えて、一致させることはいつも出来ます。

   神に奉仕するか、この世の考え方、あり方の奴隷になるか、これこそ私達が選ばなければならない選択です。
 神に奉仕するとは、神に似ることであり、私たちを取り囲んでいる人達と共に、正義と真理のうちに生きるように具体的な手段をとることです。 神に奉仕するとは、独りぼっちでないように仲間を造り、更に、受け容れ、受け容れられることです。

    
これは、キリストが言われたように、「何よりも先ず、神の国とその正義を捜し求めなさい。 そうすれば、必要なすべてのものは皆、加えて与えられる。」(マタイ633節)ということです。 そうして私たちが死ぬ時には、キリストの口を通して次の言葉を聴くことが出来るでしょう。 「よくやった。 忠実な良いしもべお前はすこしのものに忠実であったから主人と一緒に喜んでくれ。」と。(マタイ2521節)  アーメン。



             年間第26主日       C年       2010926

   アモス書 6147節  Tテモテへの手紙 61116節  ルカ 161931

    自分の隣人を助けない人は、神の国から締め出されると、様々の例え話を通してイエスは教えられます。 同時に、必要に応じて、絶えず赦すこと、憐れみを示すことをも、イエスは要求されます。(マタイ1822節参照) この二つの主張を理解する為に、ラザロと金持ちの例え話の続きを考え出しましょう。

 天の王国の鍵をもっている聖ペトロと同様に、アブラハムはラザロを歓迎しますが、私達がその名前も知らない金持ちを情け容赦なく追い出します。 乗り越えることの出来ない淵がこの両者を分けています。 金持ちは助けを望みますが、それは無理なことで、アブラハムは彼の苦しみの前で、いささかも動じません。 このアブラハムの態度で、例え話の始まりを私たちは思い出します。 と言うのは、ラザロは食卓から落ちるパンくずで飢えを満たしたいと望みましたがだめでした。 それにもかかわらず、金持ちはラザロの苦しみを前にして動じる事がありませんでした。 ある意味でこの例えは、「目には目を、歯には歯を」というモーセの律法を、そしてまた「あなた方は自分の測る秤で測り返される」(ルカ
638節)というイエスの言葉を思い出させます。

    この例えの欠点は、ラザロが何も言わない事です。 アブラハムは「ラザロ、お前はどう思うか? 何を聞きたいか?」と訊ねる事ができますし、またラザロは、「私がこの金持ちを赦したように、父、アブラハムよ、あなたも彼を赦してください。」ということが出来たでしょう。 神が私たちから期待している事はこのことではないでしょうか? つまり天の国に罪人を入らせるのは、神ではなく、むしろ、罪の被害者の憐れみ深い執り成しです。 このように彼らを救うために、イエスは自分をののしったり、軽蔑したり、十字架につけたりする人々を御父が赦すように、ご自分の父に「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ2334節)と祈りました。

    罪の被害者にかわって神が罪人を赦す可能性は全くありません。 神ご自身の正義がそれをさえぎるのです。むしろ神は悪を行なった人達が、その犠牲者に赦されるように、心から望んでいます。 これこそ神の最も大きな喜びです。 受難の際に、イエスが暴力によって砕かれた時、神はイエスに代わって人々を赦しませんでした。 御父はイエスの特別な願いによってしか、彼らを赦しませんでした。 もし神が、犠牲者が正義を受ける権利を無視して赦すなら、この犠牲者は他の新しい不正の被害者になります。 神は、人が受けた暴力の共犯者になる事は出来ません。


    ここで想像しましょう。 ヒトラーが死んで神の前に出ました。 神は彼に次のように言います。「私にはあなたを赦すことは出来ません。 何故ならあなたに殺された何百万人ものユダヤ人は正義が行なわれるように待っています。 しかし彼らが皆、あなたを赦すなら、私は喜んで私の傍にあなたを迎えよう。 勿論、煉獄での清めの時を過ごしてからだが・・・・」と。 私たちは神の本当の子となるために、私たちを迫害する人々のために祈るようにイエスは切に要求します。(マタイ544節) イエスはそれに次のように付け加えます。「あなた方が地上で繋ぐことは、天上でも繋がれる。 あなた方が地上で解くことは、天上でも解かれる」と。(マタイ1619節、ヨハネ2023節) イエスはそれをペトロだけではなく、すべての弟子たちに言われました。 確かに今日もまた、赦すことは永遠の救いを与えることであり、また神を喜ばせること、そしてまた、私たちが憐れみ深い神の愛する子であることを、はっきりと示すことです。

    私たちの赦しは天の国に相応しくない人に天の国を与えます。 同時に、私たちが軽蔑したり、傷つけたりした人の赦しのおかげで、私たちは天の国に入ることが出来ます。 実際、お互いに赦しあいながら、お互いを天の国に入らせるのです。 教会の信仰宣言は、それを「聖徒の交わり」と言っています。 そこでは一つの質問が残ります。 それは「もし世界中の犠牲者や被害者が赦すのを拒否するなら・・・?」ということです。 これこそ本当に難しい問題です。 誰も皆が最後には天国に入るとは言えないからです。 地獄、天国、神の正義は現実のものであり、人、各々が自分に与えられる許しを受けるか、拒否するかは自由だからです。
 ですから、絶えず人を赦しましょう。 そうして私たちが傷つけ、侮辱した人々が、私たちの赦しを受け容れてくれるように祈りましょう。 アーメン。


 
            年間第27主日        C年       2010103

   ハバクク書1章2,3節224節  Uテモテへの手紙1681314節  ルカ17510

    神の前で、私たちは取るに足りない僕であるとイエスは言われます。 私たちには何一つ要求する資格はありません。 私たちのすることはすべて、神から受けた賜物のおかげで実現しています。 私たちには、ほうびに価する物は何一つありません。 なぜなら私たちが受けたものしか与えることが出来ないからです。 ところで、私たちはすべてを神から受けました。 まず、生命と共に、その生命を与える自由を受け、更に、この生命を美しくすること、即ち奉仕する努めを神から受けました。

    「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙55節)と聖パウロは語っていますが、神の愛は何時も無償の賜物です。 それはほうびではありません。 私たちが全くそれに価しない事は確かで、ただ私たちの奉仕によって、神がすべての賜物の源である事を明らかに示すのを、神はこの上なく好まれます。 基本的に 私たちが引き受けなければならない奉仕こそ、際限のないこの賜物への答えです。 ですから、この奉仕は、私たちに与えられた賜物と同じように、無制限のものでなければなりません。 私たちは決して「私はもう十分しました」と言うことはできません。 聖ベルナルドは「愛の大きさは、際限なく測られる。」と言いました。 このように寛大に、且つ無報酬で仕えながら、私たちは神の寛大さと無償性を真似るようになり、私たちが本当に神に似たものとして創造された神の子であることを示します。 私たちの愛の振る舞いや奉仕を通して、たとえその態度が非常に控えめであろうと、人々は神から愛されている事を発見できます。

    預言者ハバククは、自分と同世代の悲惨さや暴力やりゃくだつや不和反目を告発しました。 彼は自分を正義と平和の為に働かれる神の召使として自己紹介しています。 彼の奉仕は神に対する全面的な信頼と忠実を示します。 財産や未来に対する計画やすべてを失った人々に、ハバククが与える答えは希望です。 ハバククは神がご自分の民を見捨てることは出来ないと繰り返しています。 使徒パウロもまた、全く逆の出来事を恐れずに、むしろ利用するようにすすめています。 福音にふさわしく、愛徳にあふれた生きかたによって、神に対する私たちの希望と信仰を全く恥じることなく宣言するように、特に、呼びかけています。


    信じること、自分の信仰と希望を宣言する事は、神が私たちに要求される努めです。 私たちの信仰が強いか、弱いかを知ろうとする事は無駄です。 というのはそれが教会の信仰だからです。 私たち一人ひとりは受洗の日に、この上なく貴重なこの賜物を受けました。 この信仰は山を動かし、木を引き抜いて海に植えることが出来ます。 大きな木の根を引き抜く事は簡単ではありませんが、何故海の中に移し植えようとするのでしょうか? 古代の人々にとって、海は死の場所でした。 海の中に木を植えるとは、死から生命を生じさせる事です。 イエスはこのように、ご自分の受難と死と復活によって成就する務め(奉仕)を告げられます。 イエスは希望と結びつく信仰は、死の力に、特に最高の悪である死自身に打ち勝つ事ができると教えます。 信仰と希望は生命の力です。

    自分の忍耐、自分の知性、自分の実力であれやこれやを実現したと思い込むキリスト者は、信仰を失う危険があります。 というのは、彼は神と神からいただいた賜物を信頼するのではなく、自分の働きに信頼しているからです。 もっと悪い事に、彼は神が自分をほめて、褒美を下さると考えるようになります。 ロヨラのイグナティウスは「神が何もしないと思って働きなさい。 そしてあなたの働きの実りは、すべてただ神だけから来ると信じなさい」と言いました。 神が私たちによって働き、私たちは神によって行動しますから、やはり「私たちは取るに足りない僕で、しなければならない事をしただけです」(ルカ1710節)。 しかしながら、喜びましょう。 何故なら神が約束されたように、私たちの信仰、希望、奉仕する忠実さによって、神ご自身が私たちの永遠の褒美となるからです。 ですから自分の希望と信仰における神と、益々親しくなりましょう。  アーメン。



                 年間第28主日     C年     20101010

   列王記下 514節−17節   Uテモテへの手紙 28節−13節   ルカ 1711節−19

    シリヤ人の軍司令官ナ−マンと福音の10人のハンセン病患者は、癒してくれる人を必死で探しています。 ナ−マンは色々な情勢の急転回の後で、エリシャに逢いに行き、他の10人の人達はイエスの前にやって来ます。 彼らが受けた答えは彼らを面食らわせました。 エリシャとイエスは癒すために何もしません。ナ−マンにドアを少し開けた召使はこう言いました。 「私の先生はヨルダ川の水に7回、つからなければならないと申しています」と。  10人のハンセン病の人達には、「祭司達に自分の体を見せに行きなさい」とイエスは遠くから叫ばれました。 ナ−マンは受けた命令に落胆し、従うのをためらいました。 10人のハンセン病の人達は一言も言わずに、エルサレムに向かって出かけました。 受けた命令に対する従順さのお陰で、みな、癒されました。

    「無償で受けたのだから、無償で与えなさい」とイエスは弟子たちに無償で行動するように頼みます。 そしてまた、何事かを要求する人達がみな、条件なしに、信じるように求められます。 既に預言者エリシャはこのように信じる事を教えていました。 つまりナ−マンが自分の健康の回復の御礼として、名誉や贈り物を差し出しましたが、エリシャは断りました。 ナ−マンは神の言葉をこそ信じなければなりません。 このシリヤの軍司令官は異邦人で、遠く離れた追放の地に連れて行かれた神の民、イスラエル人の敵です。 それにもかかわらず、エリシャは彼の要求を聞きます。 何故ならエリシャは神の賜物が無償であること、「神は人を分け隔てなさらないこと」(使徒言行録1034節)を良く分かっていたからです。


    イエスの言葉に従って、10人のハンセン病患者は清められましたが、ただ一人だけが、癒しが与える目的を最後までし遂げました。 癒されてナーマンはエリシャのところに戻ってきます。 同様に異邦人であり異端者でユダヤ人からの嫌われ者であるサマリヤ人は、キリストの足許に身を投じる為に戻ってきました。 イエスは彼が救われたと宣言します。 サマリヤ人とナ−マンは受けたいやしによってこの恵を与えた神の認識に移っていきました。 これが彼らの癒し以上に、彼らが信仰の賜物を得たと言うことです。

    ルカと列王記は私たちに、救いの門を示します。 それは感謝、恩恵、ありがたいと言う心のことです。 ナーマンとサマリヤ人は引返してきて、神の代表者であるエリシャとイエスを通して、神に感謝します。 私たちの神は救う神です。 つまり、私たちはこの神なしには生きることは出来ないということです。 私たちの体、精神、魂が癒されるために、また良い健康状態でいるために、毎日、神への感謝のうちに、神とより深い関係を築くよう努めなければなりません。 そういうわけで、イエスのみ言葉とその御体の拝領によって深く癒されるために、私たちは毎日曜日、ここに集まるのです。

    私たちは皆、神に向かって自分たちの苦悩を叫び、悪に抵抗しながら、出来るだけ早く神が助けて下さるように願います。 しかし、神が私たちの願いをかなえてくださる時、感謝の一言もなしに、私たちは、どうして、自分自身に閉じこもるのでしょうか? イエスも神も私たちの忘恩を非難しません。 しかし、ご自分の愛と救いと憐れみの神秘が認められないのをご覧になって、深く悲しまれます。 神は沢山の人がご自分を薬のように利用するのを見て、苦しまれます。 頭痛や激しい歯の痛みを癒す薬に誰が有難うというでしょうか?

    感謝することは、救いを受け入れることです。 ミサ聖祭は感謝の祭儀であり、イエスが、ご自分の死と復活によって私たちにくださる救いを、ミサは受け取らせます。 過ごしてきた1週間の間に受けたすべての恵に対して、ミサごとに、私たちは神に有難うと言います。 神ご自身の生命に私たちを与からせることによって、ミサは私たちに救いを下さるのです。 ですから、天使たちや聖人たちと一つになって、神の愛と慈しみにたいして、絶えることなく神に感謝しましょう。 アーメン



            
4年間第29主日       C年       20101017

   出エジプト記 17813節  Uテモテへの手紙 314節−42節  ルカ18章1−8

    「その手は日が沈むまで、しっかりと上げられ」そして「昼も夜も神に向かって叫んで」祈らなければなりません。 しかし、時は過ぎ去り、私たちの祈りは空しくとどまっています。 神は私達を待たせます。 神は沈黙を守り、私たちは勇気を失います。

    初代のキリスト者たちは、キリストの帰還はもう直ぐだと信じていました。 何事も起こらないので、彼らは落胆しはじめました。 ルカは貧しいやもめの例え話を使って、どのように待ち、祈るべきかを、彼らに説明します。 このやもめは自分の無力さを言い立てます。 しつこく、自分の苦境を誰かに打ち明け、その人にうるさくつきまといます。 自分の問題を一人で調整するのでなく、むしろそれらを他の人に打ち明けることは、謙虚の第一歩です。 やもめの叫びは、祈りとなり、閉じられていた扉を開く力となります。 私たちの祈りは、私たちの心の奥底からあふれ出る叫びでなければなりません。 「深い淵の底から、主よ、あなたに叫びます・・・嘆き祈る私の声に耳を傾けてください」(詩篇
13012節)

    正義と平和のための私たちの叫び、飢えた人や貧しい人のためにする懇願、死や病にたいして流される私たちの涙は、度々答えをもらえないように感じます。 実際は、神は既に私たちに答えていました。 イエスの復活は出来事の流れを完全に変えました。 この変化は最終的なことです。 悪、飢餓、暴力、貧しさは既に打ち破られたサタンの振り絞る最後の力です。 丁度,何千年も昔に、確かに消えた星の光が、漸く今、私たちにたどり着くように、私たちが耐え忍ぶこれらの悪にたいして、受けた勝利を見るのは、キリストが来られる時になるでしょう。 悪に対するイエスの勝利は、決定的に獲得され、神の王国は私たちのうちに確かにあります。

    その完全な実現を見るのをずっと待っているので、信仰を失うことや落胆の誘惑が、私たち皆に迫ってきます。 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか?」とルカは書いています。 そうです。 もし私たちが祈るのをやめないならば、信仰はつづきます。 つまり、私たちのために何でもお出来になる神に私たちが自分を委ねることです。 神に話すことは、自分の心を神に開くことで、私たちの信仰が落胆と疑いのうちに消え失せてしまうことがないために必要不可欠な事です。 祈るとは、自分の信頼を明らかに示し、忠実さを身につける事です。 ラテン語で、信仰「
fides」、忠実さ「fidelis」、信頼「confidere」は同義語です。


    神が私たちを無視すると思われる時、特に、昼も夜も神を信頼することこそ、本当の信仰です。 イエスは試練が信仰を弱らせる事をご存知でした。 ご受難のとき、落胆がご自分の中に入ってくるのを感じ、使徒たちにご自分を委ねられました。 彼はしつこく「目覚めていて、誘惑に陥らないように祈りなさい」と彼らに懇願しました。 長い1日の終わりに、モ−セはアマレク人と戦って勝利を得ました。 アロンとフルの手助けによって、決して腕を下ろす事はなく、モ−セは倦むことなく信頼にみちた祈りの内に、この態度を続けました。 もし、祈りの習慣がなければ、私たちのうちで誰もとことん信仰を守り通すことの出来る人はいません。 例え話のやもめのように、私たちの希望するものを神からいただくために、神を悩ませましょう。 神が私たちに直ぐに答えてくださるだろうとイエスは断言されます。

たとえイエスのこのみ言葉と反対のことが示されるような経験があるとしても、イエスは本当の事を言われます。 というのは実際、答えを期待しているのは私たちではなく神ご自身だからです。 聖ヤコブは自分の手紙の中で、私たちの間違った動機からの願いは、神が聞き届けられるのを妨げると説明しています。 「祈りは神に情報を知らせるのに使うものではなく、祈る人を変えるのに役にたつ」と聖アウグスティヌスは言いました。 聖アンセルムスは「あなたは岩に紐でつながれた船の中にいます。 あなたが紐をひっぱると、岩があなたの方へ近づいた印象をうけます。 実のところ、岩に近づいているのはあなた自身です。 祈りとはこれです。 あなたが神に近づいているのです」とこのように説明しました。 ですから、粘り強く全面的な信頼のうちに生きる人になりましょう。 心の奥底から、私たちの信仰を叫びましょう。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である」(ヨハネ316節)の言葉を思い出しながら・・・   ア−メン。



               年間第30主日      C年      20101024

   集会の書 3515172022節 Uテモテへの手紙 46−8、1628節  ルカ 18914

    今日の福音を聞きながら、私たちの誰一人も、「自分はこのファリサイ人に似ている」とは考えなかったでしょう。 むしろ私たちは皆、あの徴税人の味方になったことでしょう。 多分もっと悪い事に、私たちは、「神に感謝! 私はこのファリサイ人のような者ではない。」と思い込むかも分かりません。 何故なら、このファリサイ人は自分が正しいという、良い理由をいくらでも挙げることが出来るからです。 一体、私たちのうちに、1週間に2回断食する人がいるでしょうか? 私たちの間で、自分の収入の10%を献金する人がいるでしょうか?

    確かに福音のファリサイ人は模範的な人です。 彼は神に対して、決り通りにきちんと生きようと努力しています。 彼は自分の持っているものを分かち合うから、決してエゴイストではありません。
 まして、彼は神に感謝します。 と言うのは神の助けなしには、自分が行っているよい業を出来ない事が分かっているからです。 一体、私たちのうちの誰がこのファリサイ人に勝っているでしょうか? しかし、残念な事に、このファリサイ人は他の人々を自分と比較しました。

    人を自分と比較する誘惑から誰も逃れることが出来ません。 自分を安心させるのに必要なこととして、この誘惑は私たち自身の心の深いところから生まれます。 勿論、この誘惑は、神々のようになりたいと言う思いをアダムとエヴァに提案したサタンに由来しています。(創世記34節) また、この誘惑は、人と状況によって様々な形を取ります。 しかし、いつも同じ本能から湧き出ます。 それは自分と他の人とを区別する何かに、自分の信頼を置こうとする望みです。 それは富、体の美しさ、知恵、力、社会的地位などです。 他人と比較する事は、必ず、嫉妬、野望、虚栄、利己主義、軽蔑にまで至らせます。

     
信仰は自分自身を信頼しないようにと、私たちに忠告します。 私達はみな罪人で、神の前で正当化できるものを自分のうちに見つけることは、到底無理です。 私たちは神が私たちに対して示される愛に信頼を置く事以外できません。 この愛こそ、私たちを義とし、神に似ているものに変化させます。 私たち一人ひとりは望むなら、誰でも多かれ少なかれ、謙遜に、また正直に、へりくだる事ができます。 私たちはみな、自分の弱さ、自分の間違い、自分の罪を認めることが出来るからです。 それに反して、誰も神にまで自分を高める事はできません。 人々のほまれや誉め言葉はこの事に対して何も出来ません。 神だけが、イエス、マリアそしてすべての聖人をご自分の栄光の内に上げられたように、私たちを神にまで高く上げる事ができます。

    
「私はほかの人達のようではない」とファリサイ人が言いました。 そういって彼は、自分がユニークな者であると思い込んで、他の人から自分を分け隔てます。 キリストは「人間と同じ者になられた」(フィリピの信徒への手紙26節)ことで、ファリサイ人と全く反対の道を歩みました。 神のレベルに上るように勧めるサタンの誘惑に対して、キリストの御託身は、はっきりした答えです。 イエスは人間的条件のレベルまで下って、犯罪人として、十字架上で死ぬところまで下る事を選ばれました。 ここで私たちの惨めさの中心でキリストは私たちと出会います。 自分のもっている徳と美点によって、ファリサイ人は神の要らない世界を造ってしまいました。 彼は自分の業に信頼し、自分だけで充分です。 もはや神の正しさは彼にとって不必要です。

    私たちはキリスト教的生き方を個人的でプライベートな問題と考える傾きをもっています。 事実、キリスト教的生活は、神と人々との間を結びつける繋がりによって実現されます。 キリストに属すると言う人は、どうしても謙遜で、兄弟愛的な奉仕によって、他人を高めるように努めなければなりません。 これこそイエスが私たちを愛したように愛することです。(ヨハネ1512節) 自分により頼むこと、良い業を行なうことで得た美点に満足すること、これこそ自分自身を礼拝する事です。 つまり自分自身を他人が礼拝すべき偶像として造りだすことです。 聖パウロは「私たちの間で、キリスト自身の思いをもつように願っています」(フィリピの信徒への手紙235節参照)と言っていますが、これは謙遜に、神の手に自分の生命を委ねながら、人々の隣人になるようにという意味です。 この事を行なうのは簡単ではないから、福音の徴税人と共に、神が私たちを憐れまれるように願いましょう。  アーメン。


               年間第31主日       C年      20101031

   知恵の書 1122-122節  Uテサロニケの信徒への手紙 11122節  ルカ19110

    ザアカイはエリコの町の重要な人物の一人ですが、皆から非常に軽蔑されています。 というのは、彼は敵であるロ−マ人の為に働いているからです。 彼の名前ザアカイは、「清い者」と言う意味ですが、異邦人との関わりのせいで、皆、彼を不潔なものとして扱っていました。 しかしザアカイは他の人々の考えを無視していました。 彼はただイエスを見たいでした。 だから木にのぼって、馬鹿にされるのを恐れませんでした。 何故なら、既にイエスを見ようと、自分に背を向けて群がっている群集にさえぎられて、彼はイエスを見る事ができなかったからです。 そこで、急いで、木にのぼりました。 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。 今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と言って、イエスは、彼の自分を大急ぎで見たいという熱意を考慮にいれておられたのです。

    この大急ぎはザアカイが自分の富を手放そうとする仕方のうちにも見受けられます。 イエスはなにも言われませんでした。 彼はザアカイを非難もせず、罪悪感を与えることもなく、ザアカイが悔悛するように求められてもしませんでした。 しかしザアカイは理解しました。 ルカは、マタイが3年前にしたように、ザアカイも税金を集める仕事を止めたかどうかを私たちに教えません。 なににしろ、イエスはザアカイの心に救いが訪れたと断言します。 これが一番重要なことです。 イエスを見ようと努力することは、救いを頂く事です。 この努力が活発で、急ぐほど、救いは早く与えられます。 福音史家たちは、この事をはっきりと示しています。 信仰によって得られたすべての癒しは、それを受けた人々を熱心な弟子としました。

    キリスト者の多くは、神と教会が勧めることをします。 しかし、良い行いや典礼という信心の体制に閉じ込められて、もはやイエスを捜し求める努力をしません。 時々、信仰者の生き方が、キリスト者でない人にとって、イエスとの出会いを妨げる壁のようなものになります。 ザアカイはイエスに会いたいでしたし、イエスは彼を愛をこめて見つめました。 この愛の眼差しは、ザアカイがありのままの自分自身を見るように助けました。 その時、彼の心のうちに、深い悔悛の望みが生まれました。 ザアカイはイエスの面前にいて、良心に咎めを感じる罪人として留まる事は出来ませんでした。 この問題に関して、何年も前からずっと続いて一度も告解をせずにキリストの御体を受ける信者は、彼らのしたことを良く反省しなければなりません。 なぜなら、このことは彼らの魂の救いにとって非常に重要な事だからです。

    私たちのうちにおけるキリストの現存と一致するのを急ぐのは、日常の関心事でなければなりません。 これを断る為の弁解を探すよりも、むしろ心を尽くしてイエスを捜し求めましょう。 私たちが悔悛する為の余裕をねがうのではなく、まだ時間があるうちに、悔悛するように急ぎましょう。 ザアカイは彼が捜している方を見ただけではなく、この方と共に長い間留まることが出来ました。 彼の傍におられたイエスの現存は、彼に救いの喜びを与えながら、彼の人生を変えました。 ザアカイの寛大さは、喜びの泉でもありました。 ルカはザアカイのところでの食事のメニュウが何であったか私たちに語りませんが、ザアカイの悔悛と皆に繋がる喜びとを、ルカは私たちに細かく語ります。 これこそ私達が真っ先に分かち合わなければならないことです。 この分かち合う喜びは、神の王国のしるしであり、救いの目に見えるしるしです。 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使達の間によろこびがある」(ルカ
1510節)と書かれています。


    
キリストがエルサレムで死ぬ為に出発した時、彼が行なわれた最後の癒しはお金持ちに対するものでした。 ザアカイは丁度、彼の名が示しているように、その時から清いものとなり、アブラハムの本当の子供になりました。 つまり信じる者になったのです。 ザアカイは私たちの心の中にイエスを捜し求めるように招きます。 洗礼によって、私たちは救いを受け、神の子になりました。 イエスは私たちのうちに留まりたいと望まれます。 しかし、私たちは、本当にキリストを受けいれたいでしょうか? 聖霊が私たちに正しい答えを出す為に、助けてくださるように・・・ ア−メン。



             
年間32主日      C年      2010117

   マカバイ記 712914節 Uテサロニケの信徒への手紙21635節 ルカ202738

    死を越えて私たちはどうなるのでしょうか? イエスにこの質問をした時、少しの後、イエスは自分が十字架上で死ぬ事をご存知でした。 それは、まさに罠をかけ続けたサドカイ人のせいでした。

    ダニエルの預言(ダニエル書
122節)を土台としているファリサイ人と律法学者は、体の復活を信じています。 しかし彼らは永遠の命を現代の生き方の続きであり、悪から完全に解放された生き方、しかも、もっと良い生き方であると考えていました。 この新しい生き方のなかには、ご馳走とか、結婚とか、誕生さえも含めていました。 勿論、天使も復活も信じないサドカイ人はファリサイ人や律法学者の考えを嘲笑います。

    訊ねられた質問に答えるイエスは、わざと現代の世界と未来の世界の間にはっきりとした区別を置きます。 復活する人々は、「天使に似ている、神の子」です。 しかし天使は一体どんな風に生きているのでしょうか?
  同様に、結婚についてもイエスは面食らわせるような事を言われます。 「死後、私たちは私の妻や夫をもう一度見つけるでしょうか?」と自問する人々に、イエスははっきりと答えます。 死後、誰も『私の妻』とか『私の夫』とか『私の子供たち』とか、もはや言えません。 何故なら、人間の死すべき状況に関係のあるものはすべて終わるからです。 生きているうちの、家族、結婚、出産などは、子孫を通して自分が生き続けるという考えがあるので、死に対する大切な治療法とも言えます。 時や死がもはや何も害を与えられない復活の世界では、人間的なつながりはもう存在の意味がありません。

    それなら私たちはどうなるのでしょうか? 私たちはずっと男であり女なのでしょうか? 他の人から区別する私たちのアイデンティティーはどうなるのでしょう? 誰も分かりませんし、誰も説明出来ません。
 しかし信仰は、沢山の例をあたえています。 例えば、大きな木になる種、また麦畑になる小さい種、あるいは美しい蝶になる醜い毛虫、またパンの増加や葡萄酒になった水など数々あります。 天使のようになった私たちは皆、やっと自分がなるべき者になったので、完全に幸せを味わうことが出来ます。 このように、私たちの地上の生き方は、第一段階を踏み出したに過ぎません。 私たちの復活した体は栄光の体となります。この栄光の体のお陰で、私たちは他のすべての復活した人と共に、真のつながりをもって神ご自身の光の中に生きるのが可能になります。 これこそがキリストの教えです。

    死ぬほんの少し前に、イエスは死者が復活するとはっきり断言します。 第一朗読で聞いたイスラエルの殉教者と同じ信頼をもって、イエスもご自分の死を迎えられます。 イエスは「死者の中から最初に生まれた方」(コロサイの信徒への手紙
118節)であり、栄光の体をもって死後自分を示す歴史上の最初の復活された方でもあります。 死後の生き方はすべて地上的体験と想像をはるかに越えたものです。 死後の生き方は新しい生命ではなく、同じ生命です。 しかしこの生命は、今、私達が生きている限りのある、重苦しさから完全に解放された生き方です。 これは他の生命ではなく、むしろ完全に他のものに変えられた私たちの生命です。


    というのは、神と他人とに私たちを結びつけた人間関係を、死は破壊する事ができません。 私達が神からいただいた愛する能力、あるいは、愛のしるしとして神と他の人に私たちが与えたものは、永遠に残ります。 復活されたキリスト、神の栄光の内に変容されたキリストに結ばれた、私たちの愛する死者たちは、私たちのとても近くにおり、私たちのために取り成しをしています。 これこそ私たちの信仰であり、希望です。 これについて疑問を持つ人々に、また愛した人を失って慰めを見つけられない人に、聖パウロは「イエス・キリストご自身によって、慰めと希望をいただくように」(Uテサロニケの信徒への手紙216節参照)と勧めています。 なぜならイエスは生命であり、復活であるからです。 ア−メン



                   年間第33主日      C年     20101114

   マラキ書 319,20節  Uテサロニケの信徒への手紙 3712節   ルカ 21519

    ずっと以前から、人々は未来を知りたいと願っています。 それは彼らにとって安心する一つの方法です。
 人々はまた前兆をも捜し求めますが、それは不意を突かれないためです。 そういうわけで、星占い、手相占い、種々の予言や、降霊術でさえ、何時もそして今も流行っています。 しかしながら神は厳しく禁止され、これらの行いをすべて罪に定められました。(申命記18912節)

    未来に関するイエスの答えに、私たちは満足できません。 私達はこれについてもっと知りたいとどれほど期待しているでしょうか! イエスは私たちの好奇心を満足させる代わりに、むしろ多くの重要な事を私たちに勧められます。 恐れないように、だまされないように、忍耐して、信頼を保ち、証しするようにと。 土台としてのこれらの態度は、私たちの人生の続く限り、適用される事です。 神への完全な信頼を私たちが持ち続けるために、イエスは、「あなた方の髪の毛の1本も決してなくならない」と加えます。 この意味は、私たちの生き方がもっとも困難な時に、神は私たちの最も近くにおられるということです。 「希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて信じる、」(ロ−マの信徒への手紙418節)という私たちの忍耐は、永遠の命を獲得するとイエスはもう一度、言われます。 この忍耐は救いを保証し、私たちの信仰を証しする力も与えます。


 イエスは未来を明かしませんが、私たちが生きており、歴史の流れの中で倦まずたゆまず繰り返される出来事に意味を与えます。 つまり、戦争、地震,伝染病、飢饉などは、私たちの経験の一部を作り出す具体的な出来事です。 これらの外面的な出来事は、私たちの体、魂、精神のうちに、内在化することが出来ます。 ストレス、うつ状態、絶望、離婚、失業、ホ−ムレス、貧しさなどは、厄介なことです。 これらの厄介なことは、地震の力とか、戦争の暴力とかをもって、私たち自身の一番深いところに打撃を与えます。 エルサレムの神殿の破壊は、私たち人類のこれらの内面的かつ外面的なすべての悲劇を思い出させます。 一つまた一つと石を積んで作り上げたような幸せは、ただの1日で崩壊し、消えてしまいます。 自分の人生が無事に済むとは誰もいえません。 そういうわけで、私たちの人生を神ご自身の上に築かなければなりません。 それは神が私の人生の不屈の岩となるためです。

    世界中の沢山の人は信仰のために苦しみ、そして時には、死にました。 多分私たちは、殉教に呼ばれていないでしょうが、自分の命を愛によって与えるために呼ばれています。 自分の命を与えることは、自分のいるところで、毎日毎日それを行なうことです。 私たちの心から沸き出る愛は、私たちの日常の行いを光と正義の働きの業とします。 この愛は私たちの安全保障です。 なぜなら、愛によって出来なかったものはすべて、消えてしまうからです。 愛は私達を神と一致させ、私たちをこの世の救いの協力者とします。 私たちがすることは世界全体に影響を与えます。 もし私たちが冷たくなれば、世界は凍ってしまうでしょう。 しかし、もし私たちが祈り、愛するなら、私たちの世界は神の助けと慰めを受けるでしょう。


    現代は、私たちの個人的で、共同体的な証しが差し迫って必要です。 私たちは忍耐強く、恐れることなく、この未来の師である神に対する信仰と信頼を示さなければなりません。 私達は世の終わりに向かってではなく、救いの日である「神の日」にむかって進みます。 ですから祈りのうちに目覚め、愛する事や仲介する事を決して忘れないように何時も目覚めていましょう。 イエスは今日もまた、未来がどうなるかを知ろうと望まず、神に完全な信頼を持つように私たちを招きます。 神の手の中に、自分をゆだねることは、永遠の命を選ぶ事です。 信仰のうちに忍耐するとは、世の終わりまで、私たちの傍らに留まっておられるイエスの手をしっかりとつかむ覚悟を決めることです。 「私たちの信仰と希望が、私たちの人生はキリスト共に神の内に本当に隠れている事を証ししますように。」(コロサイの信徒への手紙33節) 神の平和が私たちを喜びの内に守り、私たちを愛で燃え立たせてくださるように!  ア−メン。



               王であるキリストの祭日    C年    20101121

   サムエル記下 5章1−3節   コロサイの信徒への手紙11220節   ルカ 233543

    王であるキリストという題名を考える時、人々はビザンチン様式の教会の素晴しいモザイクを思い起こします。 このモザイクは権威にみちた、全能のキリスト(ギリシャ語Pantocrat)を示しています。 かえってルカは、ないがしろにされ、嘲られ、十字架に付けられたキリストを私たちに見せます。 この事実を考えた画家や詩人たちは、尊敬をこめて、わざとサ−カスの道化師の姿でキリストを表現しました。 スパンコ−ルを散りばめた衣装を身につけて、無感動に、すきのない、賢明で、どんな事にでも答える、あの白い道化師ではありません。 むしろ他の、大きすぎる靴を履き、髪の毛をもじゃもじゃにし、おかしな服の着方をする道化師です。 キリストの奉献を表す為に、芸術家たちは馬鹿にされた道化師の姿を選びました。 この道化師は不器用で、何時も転び、理由なしに足蹴にされ、平手打ちを受け、バケツの水やタルトのクリ−ムを投げつけられて、人々を笑わせる道化師です。 というのは、歴史が、全能の神の姿よりも、弱くて、ないがしろにされた神の姿こそが、人間に真理を語っていると教えているからです。

    ルカと芸術家たちは、イエスの内に、嘲りを受け、侮辱された神の、非常に人間的な姿を現そうとしています。 道化師は私たちを笑わせ、それによって私たちはほっとします。 なぜなら、自分の上ではなく、彼の上に私達の恐れている物事が落ちてくるからです。 それは面子を失うこと、辱められる事、馬鹿にされること、指差して非難されることなどです。 道化師のように、イエスは私たちが恐れているものすべて、私たちの弱さ、悪、全ての罪を含めて背負いました。 道化師はまた私たちの本当の姿を現しています。 彼の不器用な動作、弱さ、でんぐり返りなどのうちに、やさしく自分自身を認めることが出来ます。 同様に、ご受難と十字架に付けられたイエスのみ顔が、私たちの失敗、欠点、弱さ、惨めさを反映します。

    私たちに似たものになられたからこそ、イエスは王です。 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者である事に固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙
268節) 十字架の上での悶え苦しみのなかで、キリストの奉献がはっきりと示されました。 「彼は何も悪い事をしていない」が全人類のなぶり者になりました。 ご自分の力を示す為に十字架から降りて下さるようにとイエスに願う時、彼はわざと、ご自分の弱さを示す為に、十字架上に残ります。


     
しかしながら、この弱さを通して、イエスはご自分の愛の強さを示します。 というのは、キリストの憐れみを願う強盗に、イエスは天の門を開き、ご自分を嘲る人々、皆を赦します。 「父よ、彼らを赦してください。自分が何をしているかを知らないからです」(ルカ2334節)と。

    道化師は何時も悪く扱われても、決して負けません。 彼は人々が笑い続けるように必ず、立ち上がります。 キリストも立ち上がって復活しました。 死と罪に対するイエスの勝利は、ご自分を信じる人々に、永遠の喜びを与えます。 死者の中から立ち上がり、父の栄光に包まれているイエスは、何時も十字架のしるしをもって自分を示そうとされます。 イエスの王国には入るためには、どうしても十字架の釘で貫かれた彼の手、憐れみ深い彼の手を掴む必要があります。

    全能の神が弱くて、侮辱される事を好まれたから、私たちにとって神のうちに信仰を受けることは容易です。
 ですから自分の弱さと傷をもって、私たちに良く似ていて、いばらの冠をかぶって、ないがしろにされたイエスに近寄るのを恐れないようにしましょう。 イエスは私たちの王です。 この王は私たちをでんぐり返りから立ち上がらせ、ご自分の傍に座らせる王です。 ですから十字架を見るたびに、イエスの傍で十字架に付けられた強盗の祈りを、自分たちの心から湧き出させましょう。 「イエスよ、私を思い出してください」と。 信頼を持って、愛のちからをもって、イエスが私たちに答えてくださる事を信じましょう。 彼にとって愛は王的であり永遠です。 その時こそ、私たちの喜びで圧倒されるでしょう。 十字架につけられ、嘲られた神の弟子である事を誇りましょう。  ア−メン。

                
 
Georges Rouault Christ the Clown 
 
                                     

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